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『人間らしく生きたい』

当社のマッサージ師・星野厚志さんから、メッセージを頂きました。本人の了承を得て、下記に紹介します。

彼は、目と耳の両方に障がいがある「盲ろう者」なので、テープに声を吹き込み、それを文字に起こしました。原文そのままに、掲載します。

「働くことは、人間らしく生きること」と星野さんは語ります。健常者は、働くことは「お金、家族、自己実現のため」と一般的に答えますが、障がい者にとっては、「人間らしく生きるため」というのです。

どういうことなのでしょうか?

正直、重い文章です。 生き残ることの切実さが伝わってきます。

よろしければ、お付き合いください。

人間らしく生きたい

皆さんこんにちは。有限会社フォレスト・プラクティス福祉ビジネス手がたりの星野厚志です。住まいは、千葉県の市川市に住んでいます。障害は、弱視難聴の盲ろう者です。目の病名は、網膜色素変性症です。見え方は、目の外側にほんの少し視力が残っているだけです。その部分も重度の夜盲の症状がありますし、昼間などおもてを歩くと眩しさがひどく、普通に目を開けることができなくなります。耳の病名は、感音性難聴です。右耳は聞こえません。左耳は聴力が75デシベルくらいです。補聴器をつけています。私の年齢は36歳ですが、重度の盲ろう者になったのは33歳の頃からです。それまでにも目や耳のほうで色々な症状がでていました。12歳の時、白内障になり、水晶体をとる手術をしました。手術後は水晶体の変わりに、コンタクトレンズをつけて生活していました。そのころから夜盲の症状が出始めましたし、軽い難聴もそのころから出始めました。この症状は学生の時はあまり変化しなかったのですが、社会人になって働くようになってからは少しずつ悪くなってきました。原因はストレスだと思われます。26歳の時、人工水晶体を入れる手術をしまして、そのとき入院していた病室には白内障の手術をするために中年の男性が2人入院していました。その2人の患者さんは、手術後は大変見えるようになったと喜んでいましたので、私も手術後は今より見え方がよくなるのではないかと期待していました。しかし、手術をした後は見えやすくなるどころか逆に見えにくくなってしましました。他の患者はよく見えるようになったのになぜ私の目は見えにくくなってしまったのかそのことを医者の先生に聞いてみると、あなたの目は網膜の病気になっているために人工水晶体を入れてもよく見えるようにはならなかったのだと言われ、その網膜の病気は何ですかと聞いてみると、網膜色素変性症で視力がどんどん低下し、失明する確立の高い病気で今の医学では治す方法がない病気だと言われました。でもその時は視力がどんどん低下し、失明する確立の高い病気だといわれていますが、まだ仕事をすることができる視力が残っているので、自分の目がこの病気になっていることを素直に受け入れることができなかったのです。手術をしたのが6月でしたが、次の年の1月ごろから目の見え方に変化が現れてきまして、細かい文字などが見えにくくなってきたのです。医者の先生が話していたことが実際に始まってしまい、このままこの会社で仕事を続けていても、いつかは辞めなくてはいけなくなる。ならばまだ文字の読み書きがなんとかできるときに別のことを考えたほうがいいのではないかと自分で思うようになりました。目が見えなくなってもできる仕事はなにがあるか考えてみると自分の頭に浮かんできたものはマッサージの仕事とコンピュータを使った仕事が浮かんできました。そこで私はコンピュータ音痴なところがあるので長く続けられる仕事はマッサージだろうと決めたのです。そしてすぐに盲学校へ電話をしてみると今年の入学試験は終わっていますが、あなたが受ける気があるのならばもう一度入学試験を受けることができますよと話されていたので、是非お願いしますと頼んだのです。試験日は3月3日と決まり、当日盲学校へ登校してみると試験会場となった部屋は解剖室でした。案内された解剖室に入ってみるとその部屋には体の部分の内臓が見える模型や頭から足まで骨でできている人骨の模型や棚には鬼太郎のおやじだと思うような目玉の模型や内臓の模型がいくつも入っており、そのような部屋の真ん中に机と椅子が置いてあり、そこで試験を受けることになったのです。受験生は私一人だけで周りに置かれている体の部分の内臓が見える模型や人骨の模型がカンニングしないようにと見張っているように見えたのです。午前中の初期試験が終わり、お昼ご飯を食べる時間になったのです。お昼ご飯は、別の部屋で食べるのだと思っていたところ、なんと奇妙なこの解剖室で一人だけで食べることになったのです。食事をしているときには、奇妙な模型に見られているように見え、おいしく食事をいただく余裕もなくお昼ご飯を食べ終わりました。

めでたく千葉盲学校の理療科を合格し、4月より盲学校の生徒として学園生活がスタートしたのです。でも、何も不安がなかったわけではありません。理療科の生徒のほとんどは耳が正常ですから、その中で難聴の者がちゃんと授業についてけるのか不安でした。実際に授業が始まってみると、やはり先生の話していることが聞き取りにくいところもあり、何度も聞きなおすことがありました。先生の中には聞きなおすことでイライラする先生もいたので、このまま周りに迷惑をかけつづけることはできない、そう考え先生の話をテープに録音し、そのテープを家に持ち帰り、家でノート整理をすることにしたのです。このやり方は時間がかかるやり方です。でも、耳のわるい者が周りの生徒に遅れないように授業を受けるには人一倍の努力が必要になってきます。努力をしたことで無事3年で卒業することが出来ましたし、あん摩・はり・灸の国家試験にも1回で合格することが出来ましたし、平成12年の4月から整骨院でマッサージの仕事を始めることが出来ました。

職場の同僚や院長に難聴のことを話してありましたので理解していただいていましたが、仕事が忙しくなると1度で話を聞き取ってもらえないことから苛立ちが出できましたし、患者さんとうまくコミュニケーションが取れないことがたびたびありましたし、患者さんの中には何度も聞きなおすことで怒りだす人もいました。このようなことをたびたびやっていることでストレスが体に溜まり、平成13年の1月に右耳が聞こえなくなりその年の12月に左耳も聞こえ方が悪くなり、耳鼻科で治療を始めたのですがなかなかよくならず、どんどん聴力が低下してこのままでは左耳も聞こえなくなってしまうのではないかという恐怖感がでましたし、今の状態では仕事を続けることも難しいのではないかという考えか出ていたのです。そこで仕事をやめることも考えたのですが、今仕事をやめたらもう働くことが出来なくなるのではないかという気持ちが強くなり、なかなか仕事をやめる決断が出来ず、この状態が続きました。しかし、職場の同僚や患者さんとのコミュニケーションがうまく取れないことが続いていましたので、精神的な落ち込みが始まったので平成14年の夏に整骨院を退職しました。

退職後は社会福祉法人愛光にお願いして点字の勉強を始め、その指導員から星野さんと同じ目と耳の両方に障害を持つ人の会があるよと教えていただき、自分と同じ目と耳の両方に障害を持つ人の会があるなんて思ってもいなかったので、すぐに千葉と東京の盲ろう者友の会連絡を取って平成14年12月に東京盲ろう者友の会で行われたクリスマス会に参加しました。クリスマス会当日は、周りの人とうまく話を出来るのか不安を抱えながら会場に着き、受付に顔を出すと、受付の方が星野さんの通訳者ですと私の横に通訳者を連れてきました。通訳を受けるなんて経験したことがありませんので、何がなんだかわからないまま通訳者は私を席に案内していろいろ説明を始めました。しばらくしてからクリスマス会が始まり、司会者が話し始めました。するとどうでしょう私の通訳者が司会者の話を私の耳元で通訳し始めたのです。司会者の声が聞き取れないなんてまったく感じなかったのです。クリスマス会が進み、私の通訳者が他の盲ろう者と話してみますかと聞いてきたので、はい話したいですねとお願いし、他の盲ろう者のいるところに案内してくれたのです。すると、またまたびっくり。他の盲ろう者と話がスムーズにできるようにまた通訳をしてくれたのです。他の盲ろう者との話しを終え、席に戻ると私はうれしさでいっぱいになったのです。ここは自分が盲ろう者だということを忘れる場所だ、他の人と話ができなければ通訳してくれるし、交流会の会場まで一人で行けなければ介助者が一緒に行ってくれますので、目が見えない耳が聞こえないというハンデを感じないところなのです。今まで目が見えにくいことや、そして耳が聞こえにくいということからストレスが溜まっていたのが、この盲ろう者友の会の集まる場所にくればストレスは溜まらない、逆に私にとってストレスが解消できる場所になったのです。このように毎月交流会に参加するようになったら左耳の聞こえが前より少し良くなり、以前耳鼻科の先生が聴力は回復することもあるという話しが返答なんだとわかったのです。左耳の聞こえがよくなったので、またマッサージの仕事を始めたいという気持ちが強くなり、家ではマッサージの練習を始め、時間をつくって職安にマッサージの仕事を探しに行き始めました。マッサージ用の求人を見せてもらい、障害者用の求人が非常に少なく、健常者用の求人ばかりなのでその健常者用の中からいくつか選び、職安の係りの人に連絡を取っていただきましたが、耳がわるい人は困りますという返事ばかりで面接までたどり着いたところはありませんでした。盲ろう者が働くことは、非常に難しいということはわかっていましたが、働くことが100%無理ということではない、そのように考えどんどん前へ進むことを決めたのです。するとある日、有限会社フォレスト・プラクティス代表の田辺さんと出会い、盲ろう者が働けるカフェ・アンドマッサージのお店を始めたいのだが一緒にやらないかと誘われ、仕事を探していたときにこの夢のような話を聞いたのですぐにやりますと返事したのです。田辺さんは義理の弟さんが盲ろう者で、弟さんから働きたくても働けない盲ろう者が大勢いることを聞き、そのような盲ろう者に働ける環境をつくりたいとカフェ・アンドマッサージのお店を始めることを考えたのです。開店までの準備が一歩一歩進み、お店の物件も見つかり開店まであと一歩というところまできました。ところが、開店するまでの資金が集まらなくなり、カフェ・アンドマッサージのお店を始めることが難しくなったのです。その後、田辺さんと私を含むお店のスタッフが話し合いをし、カフェ・アンドマッサージを始めることはやめようという意見がでました。私はここでやめたら盲ろう者は働くことが難しい世の中を変えることができなくなるという考えが田辺さんがやめずに続けるのならば私はやめずに田辺さんに協力をしますということを話したのです。田辺さんはお店でお客さんを待つのではなく、企業に訪問して社員にマッサージをする訪問マッサージの事業をやりたいという話を以前話していまして、その話をまた私に話したのでこのやり方ならお店を構えなくてもいいので家賃の心配がなくなるこれならばやれるのではないかと私は田辺さんに話し、また田辺さんと一緒に仕事を始めることがスタートしたのです。

福祉ビジネス手がたりとは、企業に盲ろう者を含む障害者マッサージ師が訪問し、社員の方をマッサージする企業への訪問マッサージを行っています。もちろん盲ろう者には通訳介助者がつきますので、盲ろう者が働くときに問題となる通勤の問題や、職場の同僚やお客さんとのコミュニケーションの取り方の問題などがでることはありません。また、この事業を通じて盲ろう者そして盲ろう者は働けるということを大勢の方に知ってもらうために行っている事業でもあります。平成18年6月16日に第1号企業でマッサージが始まり、これからも手がたりはマッサージを行える企業をどんどん増やし、障害者マッサージ師が働ける場を増やしていく予定です。もちろん障害者マッサージ師も増やす予定です。今はマッサージも免許を持っている障害者だけですが、将来的にはマッサージも免許を持っていない盲ろう者も働ける環境をつくりたいと手がたり、そして代表の田辺さんは考えています。障害者が働くということは何か、それは人間らしく生きたいからです。人間らしい生き方とは、自分の力で働き自分の力で働いていただいたお金で生活をする。それが人間らしい生き方です。私は人間らしく生きたいので、働くことに向かって一歩一歩前へ進んでいます。ですから、みなさんも諦めずに働くことに向かって一歩一歩前へ進んでください。盲ろう者は働けないではなく、盲ろう者だって働ける。このことを心に強く刻み、これからも私はがんばっていきたいと思っています。

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